アデリナのリボン!新体操もすごく似合っていたと思いますが、フィギュアスケートを選ぶことになったのは、まさに運命だったのでしょうか?
夢中の対象と仕事のこと
私のところへ賢そうな顔つきで寄ってくる人たちがいます。「このスケーターを知ってる?じゃあ、この人は?」と、しょっちゅう聞かれます。
私は正直に「知りません」と答えます。そこでその人たちが見せる表情といったら、言葉では言い表せません。でも、私は本当にチームメンバーの半分も知らないんです。まず、いつ知ることができるというの? 家―リンク―学校―リンク―家、これが私の普段のスケジュール。いつも走って、自動操縦で動いているんです。
移動や試合のときは、空港―ホテル―リンク―ホテル―空港。「えっ、せっかくそこへ行ったのに、いちばんの名所を見なかったの?」とジャーナリストたちは呆れます。私は控えめに目を伏せます。私が自分の仕事としてフィギュアスケートに向き合っていることを、みんなに説明する必要はないでしょ。この競技に夢中になったことも、フィギュアスケーターになりたいと憧れたこともありません。ほかのことが好きだったんです。ダンスをしたり、絵を描いたり、ぽかんと口を開けてバレエを観たり…フィギュアスケートは夢中になる対象ではなく私の仕事です。きちんとやりたいし、やらなくちゃけないことなんです。ここに一番の違いがあります。
新体操のこと
子どもの頃、フィギュアスケートか新体操かを選ぶ場面がありました。その時すでに1年間の氷上練習を終えていたんですが、あまり引き延ばされなかった(?)ので、体操部に入れられたんです。リボンの練習をしたり、ダンスをしていたのを覚えています…
初めての試合でのことでした。女の子たちが演技をしていました。私は準備して、ウォームアップをしていました。そのとき突然「試合終了」という声が聞こえてきたんです。「どういうこと?私、忘れられちゃった!」とコーチに言いました。私はフロアマットに出されました。そして15分後、優勝は私だと発表がありました。いちばん最後に演技をして、1番になったんです。
それからは新体操に燃え始めました。コーチがママに電話をかけてきて、競技を続けるよう説得し、その子は将来有望だと言いました。でも、ママが私の考えを変えさせたんです。「あなたは6時に起きなくちゃいけなくなるわよ」って。結局その後、リンクへ行くのにもっと早く起きてたんですけどね。
CSKAの最初のテストのこと
フィギュアスケートの世界に入れられたのは4歳のときです。「ペンギン」スクールのアンナ・エフゲニエヴナ・パトリケーワの下で始めました。私にスポーツの素質があることを見抜いたのは彼女なんです。パトリケーワ先生は私たちをCSKAへ行かせたがりませんでした。私の方は友達と別れるのが残念でした。でも、試してみなくてはいけないと、ママと一緒に決めたんです。
その頃は2回転のダブルジャンプを習い始めたばかりで、3回転は2~3度跳べたことがある程度でした。でもエレーナ・ゲルマノヴナ(ヴォドレゾワ)から「ダブルアクセルはできる?」と聞かれて、私はきっぱり「はい」と言ったんです。滑り出して、慌てて最初のジャンプを跳びました。回転不足でしたが、跳びました。その後さらに3回跳びました。
同じようにトリプルサルコウを繰り返しました。次にトリプルループ。ちょっとぎこちなかったけれど、できました。テストが終わって、誰よりも私自身が驚いていました。ストレスのかかる状況で(※課題を)処理できるなんて知りませんでした。
(つづく)
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